女の一生
『創世記』における天地創造の物語をしばし想起しよう。
神は己の似姿として人をかたち造り、その後、「人は独りでいるのは良くない」との
思いから、あばら骨を抜き取って女を造り上げた。蛇の誘惑に負けた女は禁断の果実を
もぎ取り、男にもそれを手渡し、共に食する。その罪ゆえに、神の逆鱗に触れた人間は
エデンの園を追放される。
爾来、女は常に男を誘惑するものとして現れることとなる。
いみじくも、その美貌によって男を惑わす罪深き娼婦、マグダラのマリアは、そうした
女性像の典型として描き出される。
しかし同時にこの彼女、「悔い改めよ。神の国は近づいた」の具現者としての顔を持つ。
悔悛を遂げた「祝福されし罪人」を象徴するマリアは、永遠の命の与った神の子イエスと
この世をつなぐメディア=巫女として、時にそのことばすら伝えるほどの重要人物。
あるいは、『ヨハネによる福音書』の中の出来事、閉ざされたはずの墓石の前に泣き崩れ、
復活の時を迎えた師イエスを目の当たりにし、「わたしにすがりつくのはよしなさい」との
ことばをかけられるのも、このマグダラのマリアであった。
娼婦にして聖女、そんな両義性を湛えたこの至高のヒロインに民衆が魅せられないはずも
ない、無論、芸術家たちが放っておくはずもない。
本書では、聖書や外典での彼女の位置づけを繙くところからはじまり、マリア解釈の変遷を
バロック期までのイタリア芸術を通じて読み解いていく。単に宗教芸術の表象分析を施すに
留まらず、その背景にある時代にも、冷静かつ明晰な筆致で食い込んだ一冊。
時にそのきらいがないこともないが、知識は決して作品を前にした新鮮な直感の妨げとなる
ものではない。むしろ、豊かな知識があればこそはじめて理解される深遠なる奥行きもある。
本書はそうした西洋芸術への洞察の一助となるものである。
一人の女性に負わされた、余りに多くの“欲望のかたち”
かの『ダ・ヴィンチ・コード』の陰のヒロイン、“マグダラのマリア”。本書では様々な絵やテキストに現れる“マグダラ”像から、2000年前に生きた一人の実在の女性が、西欧史のそれぞれの時代、どのように語られ、どのように“利用”され、“消費”されてきたかを探ろうとする。
原始キリスト教団の有力女性信者だったであろう、実在の“マグダラ”。その彼女に様々な女性達の実像・虚像が重ねあわされていく。それぞれの時代の女性の地位や社会的役割、そして女性に向けられた視線や偏見が一人の女性の姿の上に塗り重ねられていく歴史には、ある種の“恐怖”を感じ、また人間の醜さ、業の深さに打ちのめされる思いがする。その2000年の歴史の末端に『ダ・ヴィンチ・コード』が位置し、それに賛美や罵声を浴びせかける我々が存在している。
この“物語”に、救済を見出すとすれば、後世の人間達のそんな愚かさ・醜ささえも包み込む(もしかすると多少の困惑と憂愁を含んだ)微笑が、古代、キリストの身近に確かに実在したかも知れないという、かすかな空想にそれを求めるより無いのだろうか。
色々な角度から考えさせられる著作である。
『マグダラのマリア』(岡田温司著・中公新書)を読む
小学生低学年の頃、宗教の時間に、『ヨハネによる福音書』にあるこんな一節を聞かされた。
マリアが自身の髪の毛で、イエスの足に香油を注いで拭いた。
低学年の男児にとって、そのマリアの行為は理解の外にあったが、何やら得体の知れぬ感覚だけが強烈に残った。そしてこれが、マグダラのマリアのイメージと重なって、私の中に存在し続けることになる。
これが実は、マグダラのマリアを描いたものではなく、ベタニアのマリアという別人のものなのだと知るのに、その後随分の時間を要した。
サンタ・マリア・デラ・グラッチェ教会に描かれた「最後の晩餐」の12使徒の中のひとりが男性ではなく女性で、それがマグダラのマリアではないか、という『ダヴィンチ・コード』の展開は、多くの人に衝撃を与えただろう。
ただ、私は、衝撃より前に「娼婦マグダラのマリアがなぜ?」という疑問を強く感じたのだが。
本書は、「聖女マグダラのマリア」が「娼婦マグダラのマリア」にそのイメージを変貌させていく過程を、聖書に入れられなかった外典の記述や修道会の存在、あるいは、多くの絵画、文学を網羅して描いてみせる。
マグダラのマリアとは何者だったのか?外典に見えるペテロの言動には、後のローマカトリックの展開を考えるとき、興味深いものがある。
西洋の女性観の鏡
ダヴィンチ・コードで一気に日本でも知られるようになったマグダラのマリア。
キリスト教文化を知る上で必須とも思える人物であるが、不思議と日本では紹介されることが少なかった。おそらくこの本が一般に入手しやすい新書という形では初めて紹介していると思う。
「マグダラのマリアとは西洋の女性観を著す格好の指標である」というのが読了した第一の感想である。
福音書や外典に表れる数々のマリアたちやその他の女性像が複合しているという時点で聖母マリアとはまた違ったもう一つの代表的女性像である。それは聖と俗の対であり、時代時代の女性観の鏡である。
隠修士であり、娼婦であるマリア。罪深き人間であるマリアである。
美の象徴でもあり、罪の象徴でもある。いかにも人間くさい。
聖母マリアには自己を投影するには不可能であるが、マグダラのマリアには自己を投影できるであろうし、教会としても様々に話題にしやすい存在である。
作者は本格的な美術史家であり、本書はその該博な知識と美と文化への探求心の産物である。これまで日本であまり注目されていなかったが重要なテーマであるマグダラのマリアにテーマを絞ったことにも西洋文化への確かな理解が表れている。
マグダラのマリア
マグダラのマリア(Maria Magdalene)、と言えば最近のキリスト教をテーマにしたミステリーやサスペンスになると必ずといって良いほど登場するキャラクターという感もありますが、彼女に関する聖書の記述と現代人が思い浮かべるイメージには大きな隔たりがあると言わざるを得ません。 イエス・キリストの生涯における最大の奇跡、「復活」に立ち会ったというその大きな役割に対して使徒の間でもその評価が大きく分かれており、当初から彼女の存在は相反するイメージを根底に有していたように感じます。 「マリア」という名称はヘブライ語での"Miriam"から派生し"Maria"となったようですが、旧約にはモーゼの姉としてその名が記載されているようです。歴史上、女性は名称によって個人を特定されるという習慣が少なかったのは、古代の日本やローマでも共通のようで、「〜のマリア」として表現される女性は聖書に多く登場しています。 そのような表記の類似性、そして相反するイメージの補完といった背景がそういった数多くの「マリア」を一人の女性「マグダラのマリア」に収束していったような気もしました。 岡田温司氏はこの作品にて、その登場からその変遷の歴史を、数々の美術やエピソード、そして社会的な背景からそのギャップの説明を試みています。作品中で言及されている美術作品のほぼすべてが図版で記載されているのが素晴らしい。 様々な性格を併せ持つ「マグダラのマリア」の概観を押さえるには、まずこの書を手にとっていて欲しい、と言わせるだけの内容があります。偏見のない文章や、「現代に生きるマグダラ」といった観点はなかなか興味深くお勧めの一冊です。
中央公論新社
処女懐胎―描かれた「奇跡」と「聖家族」 (中公新書) イエスが愛した聖女 マグダラのマリア マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒 肖像のエニグマ―新たなイメージ論に向けて マグダラのマリア無限の愛
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